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プロローグ
1928_張作霖爆殺事件(満州某重大事件)
張作霖爆発死事件は、1928 年 6 月 4 日に瀋陽近郊で、奉天の軍閥であり中国軍事政府の総司令官である張作霖が暗殺された事件です。張作霖は、事故があった黄谷屯駅での爆発により個人列車が破壊され、死亡しました。大日本帝国陸軍の関東軍によって計画され、実行されました。
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▪満蒙開拓団
1929年の秋、アメリカから始まった大恐慌は瞬く間に世界に広がり日本経済も不況のどん底にあった。職を無くした人が巷に溢れた。1931年9月18日、柳条湖において南満州鉄道の線路が爆破される事件が発生、満州事変へと発展した。関東軍の自作自演であったが、軍はこれを機に瞬く間に満州各地を制圧、1932年3月満洲国が独立を宣言する。翌年、日本人の満蒙開拓が本格的に開始された。
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・試験移民
1932年10月、第一次武装移民は帝国在郷軍人から423人が選抜された。彼らの出身地は東北6県と新潟、長野、群馬、栃木、茨城の各県で世界恐慌の波をまともに被った貧しい地域であった。第二次武装移民は東北、関東、北陸の各県に拡大され石川県からは31名が参加。しかし第一次、二次ともに入植時は匪賊の襲撃などにより死者・脱落者が相次いだ。軍の支援などにより第三次、四次と試験移民政策は続き、政府は本格的に集団移民を国策とし百万戸開拓移民計画に全力を注ぎ始めた。
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私は文明の光の届かない能登半島で1922年に生まれた。名前は南方寳作(なんぽう ほうさく)。小作農家の十人兄弟の三男坊。私の小学生時代は村に電気はなくラジオや新聞や雑誌などもなかった。厳しい封建社会の中であったが幼少の頃から元気に育ててもらったと思う。
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1934年9月7日、私が小学6年の時、日本海軍の水上偵察機がエンジン不調で不時着し、近くの海岸に乗り上げた。木の骨材で麻布を張り銀色に塗装された2人乗りの偵察機だった。搭乗員の名前は山岸、上野と胸の名札に書いてある。非常に珍しい事件であった。
病魔に襲われ若くして亡くなった兄の「寳作、勉強して飛行機乗りになれ」
この一言が私の人生に大きな影響を与えた。あの日、生まれて初めて現実の飛行機にふれた。
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・分村開拓先遣隊
当時、農村更生指定村であった我が村も当然この国策にいち早く参画。時の村長・畑中三郎氏、農会長・新徳太郎氏、農業指導員・阿達精次氏等の主唱で昭和13年頃より計画が進められていた様である。
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・南方寳作、先遣隊に参加
1939年3月下旬、出稼先から帰省した晩、新徳太郎さんより鰐崎の若い衆は向さん宅に集まるよう布令があった。私は何の予備知識もないまま出席した。そこで村の現状と困窮状態がつぶさに説明され、当村では目下、満洲開拓分村移民計画が進行中で先遣隊員を募集している。ぜひみんな賛同参加してほしいと要望が出された。
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集まった若者達はみな貧しいどん底の少年期を経てきた。幼少からの海軍軍人になる夢を投げなければならないので複雑な心境ではあったが、二十町歩の地主になれるという話に私は即、意を決したのであった。
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・渡満
6月5日、徳田内地訓練所での軍隊式の訓練を終え石川県主催の盛大な壮行会に臨み、翌6日には拓務省主催の壮行会に臨んだ。先遣隊を歓送する敦賀湾岸壁は人で溢れ五色のテープ数百条が船上の人と桟橋から見送る人を結び、風に揺れていた。
午後4時、私達を乗せた気比丸は岸壁を離れ速度を上げながら北上した。さようなら日本。
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6月10日午後7時、朝鮮北方の清津港に上陸。図門、東京城、牡丹江、東安街を経て東安省虎林県第六次黒咀子開拓団に到着。
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・現地訓練所入所
黒咀子開拓訓練所では農事指導員・辻本哲雄氏、警備指導員・関根⚪︎雄氏、満語指導員・岡田龍吉氏等が教育に当たった。私は自動車運転技術習得のため運輸部に配属され、学科を勉強する時以外は団の荷物輸送、部落や個人への物資の配送に協力していた。多忙ではあったが結構楽しい日々が続いた。
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・理想郷
入植して3年の黒咀子開拓団は本部・学校・病院・加工場などの公共施設はほとんど出来上がり、個人住宅もほぼ完成と理想郷実現に着々と近づいている様だった。北東にはウスリー江の流れがありその彼方はソ連領である。夜、ソ連には電気が灯るけれど、団にはまだランプしかなかった。
“黒咀子開拓団”
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無免許の中崎氏の運転で虎林駅へ荷物を受け取りに行った。駅で大きい荷物を積み帰路を走っていると十数名の団員が徒歩で歩いているのを見つけた。中崎運転手は全員をトラックに便乗させ機嫌よくスピードを出していたのだが本部まであと少しという曲がり道で減速せずにハンドルを切った。トラックの後部がフワッと浮いた。横転するトラック、投げ出される満載の荷物と十数名の団員。阿鼻叫喚の惨状が一瞬にして起こったのである。私は咄嗟に荷台から飛び降りたので怪我をせずに済んだ。
“トラック横転”
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・入植地決定
1939年12月15日、私達の西海分村入植地が浜江省巴彦県太陽地区に決定。1月24日に黒咀子訓練所を出発し、吟爾浜から巴彦を経由し夢の新天地、恵陽開拓団に入植した。入植初年度の幹部構成は以下の通りである。
団長 大港専一
農事指導員 小川達雄 大槻栄寿
経理 前家二三男
庶務 南方寳作
倉庫 寺矢穂作 坂本正義
土地土木 板谷寿松
建設 中谷清作 増井勇
外交 宮根源内 前政夫
営農 田畑才太郎 小浦長作
運輸 上宮喜一朗
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・庶務 南方寳作
恵陽開拓団に第二次・第三次先遣隊計30名が入植した。本部の位置が決定し、急ピッチで建設が始まった。訓練所で私は運輸部に所属していたが入植と同時に団長から事務所入りを命ぜられた。17歳になったばかり、しかも事務の経験皆無の私に何で・・・・?
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庶務の仕事をする中で大陸の全土に渡る戦線の拡大、欧州における第二次大戦の勃発、米英蘭対日の対立が風雲急なることを少ない情報の中で感じた。この頃から忘れかけていた海軍志願の夢が頭をもたげ始めていた。
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・満洲での生活
恵陽開拓団も本部、学校、病院、個人宅と計画通りに建設が進行。水田も朝鮮人指導者のもと、団員達が汗を流していた。田草取りは現地の若い女性に応援に来てもらい賃金の支払いを毎日私が担当した。現地人との感情も日一日と良い関係になりつつあった。北満の夏は非常に短いけれど作物の成長は日照時間の関係で驚くほど早い。秋の収穫が終わるとすぐに冬の訪れである。
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開拓団の生活の前途に光明が見え始めていた頃、日中戦争は泥沼の様相を呈し日本を取り巻く情勢については私なりに感ずるものがあった。兵役を逃れることは絶対に許されない。徴兵検査は迫っている。満洲で開拓村建設の重要な時期にあることは承知の上で私は幼い頃からの夢を選ぶことにした。この胸の内を団長に訴えるしかないと便箋に書き連ねた。その枚数は6枚。団長はどのように思われるだろうか。
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1941年1月11日、私は雨の降る金沢駅に降り立った。北満からの服装であったが震える寒さを感じたのは何故であったか。
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故郷に戻った頃、助九郎の伯父にお会いした。伯父は私にこんなことを言った。「オツサマ、かんまえて人様を満洲へ誘うなよ」と、2度3度繰り返し言った。無学な伯父であったけれど今にして思えば先見の明があったようである。そんな事を公然と口走れば即非国民の烙印を押される時代であったわけであるから。
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・海軍志願兵試験
珠洲では海軍志願兵の試験は終わっていたので松任の試験場へ向かった。受験者は50名位いたと思う。合格者は10名余り。私は無事合格した。
とはいえ採用通知を受け取るまでは喜ぶには早すぎる。2月下旬、下関から釜山経由でとりあえず帰団。凍てついた北満洲で事務仕事をしながら採否の通知を待った。通知を受け取ったのは3月の終わり。幼少からの悲願がやっと叶い天にも昇る思いであった。
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4月に入ると北満の大地に南風が吹く。団員の皆さんは春耕の準備をしている。私は2年間の満蒙開拓生活で幸か不幸か鍬鎌を振ることは一度もなかった。
住み慣れた恵陽開拓団に名残を惜しみつつ帰国の途についた。
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4月29日、海軍入隊のため村人達に送り出してもらった。西海村からは私と狼煙の角田君の2人だった。夜、舞鶴の旅館に1泊したがこれが娑婆での最後の夜だと思うと眠れなかった。一緒に入団した角田君は私より3つ年下で体格のよい好青年であった。太平洋戦争開戦間もなく戦死されたと聞く。
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・海兵団入団
5月1日、海兵団に入団。海軍四等水兵を命ぜられ第十二分隊六教班に配属された。軍人の基本となる徒手訓練、陸戦教育は海兵団も同じである。基礎教育を受けていない私は戸惑うことが多かった。ボート漕ぎは普通カッターといい10人でオールを漕ぐ。私と西村君はストロークでボートの最後尾。私たちの呼吸を合わせることが舟をスムーズに進めるコツである。オールが一致しないと船長から即、舵柄が飛んでくる。
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8月15日、過酷で厳しい教育訓練の海兵団生活を終え、海軍三等水兵となり第二防備隊に配属が決まった。第二防備隊とは如何なる任務を帯びた部隊なのか、聞いたこともない部隊で何も知らないまま私達新兵は南方方面行きの擬装船に乗り舞鶴港を出港した。
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・呉軍港
なかなか見つからなかった第二防備隊が呉軍港にいるとの情報で便船を乗り換え内地に引き返し9月中旬、私達は呉に入港した。初めてみる呉軍港の規模、浮かぶ艦船。一万トン級の一等巡洋艦やさらに巨大な戦艦大和が接岸している。
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入隊した二防部隊の任務の全容が朧げながら見えてきた。輸送船団の護衛が主任務で航海中は船首と船尾に高角砲を配置。敵地上陸地点に達した際はイチ早く敵前上陸し高角砲や水上砲を設置し敵から船団を護るというもの。
二防の乾隆丸は九州西海岸で砲台の揚陸と設営訓練を日夜繰り返したのだが、作業の殆どが人力であるため大変な苦労が伴った。
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所定の訓練を終えた二防は関門の沖合で出動の命を待った。日米英蘭関係のとても険悪な情勢が我々にも重くのしかかっていた。
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・開戦前夜
12月7日夕刻、司令の手塚五郎大佐の訓示があり、連合艦隊司令長山本五十六大将の全軍に対する命が達せられた。対米英開戦が間近に迫り部隊全軍に緊張が走った。我々はどの方面に出動するのだろうか。下級新兵の私には何も分からない。小学校の運動会前夜の気持ちの高ぶりに似たものがあったと記憶している。
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1941年12月18日未明、ハワイ真珠湾攻撃に呼応して軍が動き出し、ついに馬公(台湾)の乾隆丸にも出動命令が下り夜明けと共に洋上へ。台湾の島影が水平線に消えた頃、洋上には南下する輸送船100隻、護衛船90隻からなる大輸送船団が集まり、乾隆丸はこの船団の最後尾に位置していた。周囲の艦艇を遠望した時、私は日本の不敗を固く信じたものである。
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この艦艇のほとんどが数年後には海底の藻屑になろうとは一体誰が考えられたであろうか。身の知るよしもなし。
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12月24日、フィリピン諸島リンガイエン湾に入った。リンガイエンの海岸は加賀海岸を思わせる砂浜が延々と続いている。陸揚げされた砲台を高台に設置。ニコラス、クラークの敵航空基地はほとんど壊滅していたが、何処かから飛来する敵機の高高度爆撃があった。その都度、第二防備隊の高角砲が火を吹いた。爆撃による被害は皆無に近かったが、後日潜水艦による攻撃で艦船が数機沈んだと耳にした。
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カビ臭い船室で1942年の元日を迎えた。雑煮にありつけたかどうかは記憶にない。来る日も来る日も穏やかな南海の大海原を輸送船団の最後尾で航海していた。これが戦争なのかと疑いたくなるほど安穏とした日々。時折ゼロ式戦闘機が上空を飛び、船団を護衛している。敵機のいない上空で日頃鍛えた技量を披露したいのか背面飛行、横転、宙返りと高度な技を展開し大空の彼方へ消えていった。空を飛ぶ夢をまだ捨てていなかった私は海を這うように航海している自分が惨めに思えた。
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1月8日、タラカン島に到着。陸戦部隊は敵の虚をつき島の後方から上陸、奇襲し僅か2日で敵を全面降伏せしめた。その頃オランダ軍の空襲があり乾隆丸は至近弾を浴びたが命中は免れた。4発の爆弾が海に着弾し船体は大きく揺れ数人の怪我人がでた。無数の魚が我々の代わりに犠牲となって海面に浮上した。
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・ジャワ島の海ヘビ
次期作戦はジャワ島らしい。凪の海面を体長約1mの無数の海ヘビが白黒縞模様の体をくねらせて泳いでいた。その時さらに異様な光景が目に飛び込んできた。それは漂流している人、人、人であった。前日のスラバヤ沖海戦で我が軍に撃沈された連合軍の兵士たちだ。救命胴衣で身を浮かせ白い布を振り助けを求めている。戦争は無常なものである。この人達を見捨て、船団は南進を続けた。あの真っ赤に焼けた白人の顔が私の頭から消えることはない。
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3月1日深夜、船団はジャワ島中央部に到着。連合軍の抵抗激しく魚雷艇の急襲、爆撃機の攻撃、地上からの砲撃、銃撃が夜明けまで続いた。我が軍もこれに応戦し陸軍部隊は敵前上陸を開始。探照灯は魚雷艇を追い、上空の飛行機を捕捉する。機関銃の曳光が花火のよう。これが近代戦かと思った。乾隆丸は低空から爆撃を受けたが今回も命中を免れた。夜明けとともに敵の抵抗はほとんどなくなり私たちは艦船護衛の砲台をいち早く陸上げ、設置することができた。
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7ヶ月親しんできた乾隆丸、アン式(英国アームストロング社製)高角砲、手塚司令、川島分隊長とお別れしバリックパパンに上陸、第二十二特別根拠地サマリンダ派遣隊の隊員になった。
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オランダ軍から接収した軍用トラック2台に50人の捕虜を乗せ、奥地にある飛行場の草刈りに向かう。警備として私が一人、三八式歩兵銃を持って同行した。戦給品のタバコを彼らに与え、言葉の通じない敵兵と談笑した。後方陣地でのひとときであった。
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4月18日、米軍機による本土初空襲があり、戦勝ムードの国民に大きな衝撃。
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・ミッドウェー海戦
6月5日、ミッドウェー作戦で日本は空母赤城、加賀、飛龍、蒼龍を失い飛行機300機、錬成された優秀な搭乗員数百名を失う大敗北を喫し、以来制空制海権は敵手に落ちたのであった。
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マハカム川のほとりで銃を片手に歩哨に立つ。赤道に近いボルネオでは北極星は見えない。後陣の静けさの中で降るような星空を眺め感傷に浸る。
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オランダ軍捕虜数名が武器、弾薬、食料を盗んで山中に逃走した。ダイヤ族の協力を得て山小屋に籠る逃亡オランダ兵を殲滅した。そのダイヤ族の功を表彰するため塩や衣類を持参しマハカム川の上流200キロ地点へ遡行することになった。
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往路4日間のマハカム川遡行の途中、ジャングルで猿の大群や巨大なワニに出会うことがあり貴重なボルネオ奥地の自然を体験した。
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・ダイヤ族の饗宴
ダイヤ族はオランダ植民地時代でも密林の奥地で自治区を設け蘭軍に屈することなく抵抗を貫いてきた民族である。表彰を受けたダイヤ族はその夜、村民挙げて私達を歓待してくれた。彼らの作ったドブロクを供してもらい男女の振り付けが全く違うガンダスという踊りを披露してくれた。徳島の阿波踊りに似た感がある。踊りは夜を徹して続き、見物する私たちの手を取って踊りの輪に誘う。単調な踊りだが熱気ムンムンとしたものであった。
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軍医長永井政敏中尉が着任され、私に従兵の命が降りた。それからは軍医長と起居を共にし、病室勤務の看護職務代行をすることになる。それから5ヶ月間、助手として額に反射鏡をつけ目や耳の検査、治療、注射(静脈・皮下)など色々な治療の手伝いをしたのだが淋病患者の膀胱洗浄には流石に閉口した。
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ヤブ医者もだいぶ板についてきた頃、私達無章の兵隊に各種練習生の採用試験が実施されるとの連絡が届いた。初めて訪れた悲願のチャンス。私は飛行搭乗員への近道と思い迷うことなく整備術練習生を受験したのであった。
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・帰国
軍医長従兵にサヨナラしてポンチャック派遣隊を退隊し2年ぶりに日本に帰ってきた。佐世保から2日間、列車に揺られ神奈川県厚木市にある相摸野海軍航空隊に入隊。ハワイ海戦、インド洋作戦、ミッドウェーを経験した乗組員が多数いて陸上の応召兵に甘やかされてきた私は圧倒されてしまう。気合を入れなければと自分に言い聞かせ、時代の先端をいく航空機の勉学に打ち込んだ。
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これまでの経験から自動車のエンジンには多少自信はあったが20,000個の部品からなる航空エンジンとは比較にならなかった。飛行機という空気より重い物体を空に飛ばすための物理、原理、理論、機体の構造、操縦系統、航空計器、発動機の構造、動力計器、気象学などを学んでゆく。6ヶ月の教育期間を終え、私は搭乗発動機整備員に志願した。
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搭乗発動機整備員の採用が班長から教えられたのはその数日後。ずいぶん回り道をしてきたけれど、幼少からの念願がついに叶った瞬間であった。
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1943年4月18日、連合艦隊司令長官山本五十六大将がブーゲンビル上空で戦死された。
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ガダルカナル、キスカ撤退、アッツ島玉砕、タラワ、マキシ玉砕と敗戦の報が続く。相摸野での地上教育を終え、上空訓練のため鹿児島県鹿屋基地へ移動。
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・初飛行
鹿屋航空隊は大型機の基地で一式陸攻、96式陸攻が所狭しと駐機していた。小型機と違い大型機は操縦員、偵察員、電信員、搭乗整備員の4名でチームとなる。初飛行は2月上旬の晴れた日で96式陸上攻撃機であった
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夢中の内に機は地上から離れた。フラップ、脚の操作、燃料コックの切り替え、そしてエンジンの調子を確認。異常な振動や油漏れは無いか副操縦席に座して計器による機体の診断を常に行う。機体とエンジンを正常稼働させるのは搭乗整備員に課せられた義務である。
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自身が操縦桿を握って飛ぶという幼い頃からの夢とは違うためどこか満足感が足りなかったのは事実であったが、私はついに空を飛んだ。
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1944年3月末、第27期大型機新搭乗員特別訓練員の訓練課程を修了し神奈川県厚木基地1081空へ転勤の命令が出た。垂直尾翼に燕のマークが付いているので通称「燕部隊」という。厚木航空隊は帝都防衛の戦闘機隊と同居している新設されたばかりの輸送機隊だった。これは人生の大きな岐路で、あの時攻撃隊に配属された人達の多くは帰らぬ人となった。
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7月17日にはサイパン島守備隊全員が玉砕。米軍のグアム島上陸と物量による反攻は激しく、我々輸送隊は前線への補給、撤退作戦の支援、搭乗員の救出作戦等で日夜飛行に従事した。ボルネオ島、比島、台湾、硫黄島への任務。そして北海道、四国、九州、沖縄、上海への定期便。
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・ダグラスDC3型
制海、制空権を失った本土海空域は敵機が跋扈(ばっこ)跋扈する中を飛行せざるを得なかった。一式陸攻と96陸攻は兵器を備えているからある程度の戦闘はできるが、ダグラスは全く無防備で落下傘さえ備えていなかった。ダグラスで飛行中に敵機に遭遇すればアッという間に撃墜されてしまう。こうして何機ものダグラスが未帰還となっていった。
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輝部隊に所属していた弟の要作が駐機していた燕マークの飛行機を見つけて会いにきた。持ち合わせの金をどう使ったらいいかと相談をうけ「もう我々は長くはないんだし女と遊んで今生の思い出を作れ」と言って別れた。その後、輝部隊に敵機動部隊への攻撃命令が出て出撃。
弟は台湾沖から帰ってこられなかった。18歳であった。
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1番機は96陸攻、2番機がダグラス。私はダグラスに搭乗している。九州を出てもう4時間が経過していたが天候が悪く1番機を見失い、今どこを飛んでいるか分からなくなった。燃料は1時間と持たない事を機長に告げ、不時着覚悟で西に進路を取るように申し入れた。西へ飛べば中国大陸がある。さらに40分ほど飛行した頃、眼前に屏風を立てたような海岸が現れた。台東近くの海岸だと判明し海岸沿いを南下。1番機に遅れること2時間、台南に着陸した。燃料計はゼロを示していた。
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台湾を出て5時間、そろそろ九州南端に来ているはずなので高度を下げて海面に出たいが、厚い雲に少しでも入るとスピンナー翼前緑がピシャッと凍ってしまう。相当気温が低いらしい。雲に入ることはできないが引き返す燃料もない。電信員は各地の基地の天候を聞いているがどこもダメらしい。万事窮したその時、東西に走る雲に断層を見つけた。厚い雲が上空から海面まで切った豆腐のように真っ二つに分かれていた。その裂け目を急転直下高度を下げて飛んだ。遠く海面の砕波が見える。
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・偵察機の地上大破
8月頃、私達は2番機ダグラスを滑走路から離れた芝生に止め整備作業をしていた。突然、キキィーと異様な金属音が轟き、着地に失敗した訓練中の一式陸攻が左に傾きながら滑走路を滑っていく。そのまま整備中の1番機に激突。1番機は180度回転し両脚折損。訓練機は大破してしまった。私達は1番機に向かって走った。機内に入ってみると竹内兵曹、星名一飛は血に染まって意識不明。野川兵曹は自力で脱出していた。滅茶苦茶に破損した訓練機からは練習生が運び出されていた。
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金属製の物体が空を飛ぶということは抗力と推力、揚力と重力のバランスが整った時に可能となる。このバランスが少しでも崩れれば飛行機は落ちる。燕部隊は常に長距離飛行することが多く、天気や気候にも大きく左右される。飛行中の故障はつきものである。計器の指針を頼りに事前に故障を察知し応用動作をとらねばならない。空の上は緊張の連続である。
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・整備員の仕事
16人の便乗者を乗せて一式陸攻が離陸した。操縦は予備学生、整備は前川二整曹。滑走路の果てを上昇した時、突然両エンジンが停止。脚上げ操作直後で高度が低く咄嗟に不時着操作を試したようだ。不時着後、飛行機は田んぼを滑走しながら電柱や鉄塔を薙ぎ倒し、左翼はくの字に曲がり川に落ちた機体はちょうど橋を掛けたような形で停止した。村上兵曹、樋口兵曹は頭蓋骨が見えるほどの重症であったと聞く。事故の原因は飛行前の整備を怠ったことだと考えられる。あの事故以来、前川二整曹に会っていない。戦友会にも参加されていないし名簿にも話題にも上らない。私の1年後輩であった。
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10月20日、大西第一艦隊司令長官は神風特別攻撃隊編成を発令。25日、関行男大尉以下18機の特攻機が敵空母に体当たりした。レイテ沖の海戦で日本海軍は壊滅状態となった。
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野川兵曹操縦のダグラスが潮岬沖の上空で敵機と遭遇、撃墜された。無防備のダグラスで敵に発見されたらもうなす術はない。彼とは数少ない同期であり台湾高雄での地上事故をはじめ、チームを組んで飛んだエピソードが一杯ある。
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豊田兵曹は古武士を思わせる風貌、ボクシングで鍛えた肉体、そして憂国の熱血漢であった。ある日、飛行分隊総員集合がかけられた。何事かと思ったが豊田兵曹の手には軍人精神注入棒が握られていた。「貴様等、この戦局をなんと心得ているのか。全員気合いが抜けている。喝をいれるから覚悟しろ」樫の木で作った六角の棒がうなりを生じて1発、2発、3発と我々の尻に食い込む。
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我々同年兵は有り難くもないものを10発頂戴し新兵時代の甲板整列が今更再現されるとは思いもよらなかった。豊田兵曹は19年11月准士官に任官したが敗戦の色濃い20年4月頃、日本の前途を憂いて士官食堂で拳銃自殺を遂げてしまった。
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・白昼の夢
昨夜、飛行割は台湾高雄と発表されていた。暁の試運転で1機爆音を轟かせ飛行場の静寂を破った。試運転良好、出発準備よろしい旨機長に報告。未だ明けやらぬ空は東天が白く秋晴れである。両エンジンは快音を滑走路に残し、上昇を続けていく。
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計器も全て異常なく作動し、何の懸念もない。フラップ、脚上げを終え、エンジンの油漏れの有無を確認しようと客席の窓から目視。左エンジン異常なし。真っ赤な太陽が太平洋の彼方、水平線より水を切って顔を出している。
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次に右エンジンの確認に向かう。客窓からエンジン越しに朝日を浴び輝く富士山が見えた。なんと美麗な富士であろうか。夢かとばかり自らを疑うほどだ。ダグラスは今、上昇を終え高度4300mに達し水平飛行に移り潮岬方面に進路を取った。富士の裾野は紫雲の中に消えて見えない。この大自然の造詣を私の知力は表現する文字も言葉も持ち合わせていない。ただ茫然と眺めるだけである。
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私一人万金に値する光景に見惚れているとも知らず、偵察員も電信員も懸命に自己の職務に集中している。もし私が画家なればどんな名画を後世に残せたか。写真家なればどれほどシャッターを切ったことか。陽は次第に昇り、飛行機は目的地に向けて飛ぶ。あの数分間はまるで白昼の夢であった。
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1945年3月10日、米空軍は東京を大空襲した。無差別爆撃で約12万人が犠牲になった。
この日私達は新型機テストのため昭和飛行機製作所へ派遣された。
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4月に入ると米軍は沖縄に上陸、6月23日に守備隊は全滅し戦死9万人、一般人も死者10万人を数え、沖縄は完全に敵の手に落ちた。連日、新機が生産され試運転、試験飛行が繰り返された。
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サイパン、テニヤン、硫黄島、中国からB29が連日飛来し日本本土を空襲。大都市は焦土と化し昭和飛行機製作所も攻撃の的となる。
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7月23日、昭和飛行機派遣隊の私達にもついにその日が来た。機と共に青森県樺山基地に集結せよの命令。樺山基地に着くと各基地から一式陸攻、96陸攻、ダグラスが複数機集まっていた。
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・鵬特別攻撃隊
海軍も陸軍もあの手この手の特攻作戦を考えていて私達は鵬特別攻撃隊に編成された。隊長は予備士官の田村倉由大尉で開口一番「日本は国家存亡の重大岐路にある。特攻隊といえば我等にとって無縁で手の届かない崇高なものと思っていたが、神州日本の不滅のために心して訓練に励むように」。以上のような訓示であった。
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樺山空から美幌第三空へ。日没と共に飛行機へ、洋上にて夜間航法訓練である。しかし、一糸乱れず訓練が行われたわけではなかった。病気を口実にサボる者、食事の不満を訴え徒党を組んで上部に殴り込みをかける者達、悪態を落書きする者。必ずしも全員が特攻を甘受しているのではなく、本人の意思に関わらず当然の如く上からの命令によってここにいるのだ。
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攻撃隊の目標は誰いうとなく伝わってきた。闇夜に紛れて片道燃料の輸送機に隊員を35名づつ乗せ各自手榴弾6発、日本刀、拳銃1丁を持ち、敵基地へ強行着陸後殴り込みをかけB29を爆破する計画だという。無謀と言える作戦だった。8月18日決行とのこと。
もとより望むところ、覚悟の上の搭乗員である。
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8月6日原子爆弾が広島に投下された。
8月9日原子爆弾が長崎に投下された。
8月9日ソ連が日本との不可侵条約を破棄、対日宣戦布告し満洲へ侵攻を開始した。
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8月14日、御前会議で政府はポツダム宣言受諾を決定。
8月15日、玉音放送を舞台中央の広場で聞いた。
無念の無条件降伏で悲憤慷慨したのであった。
[恵陽開拓団ルート]
1
・敗戦の報に事態悪化
日が進むに従って物価は非常にインフレ気味となり、労務者の賃金も割高となるなど開拓者にとってますます不利と心配が重なっていた。敗戦の報は開拓者よりもむしろ原住民の思想に反映し、状態は一挙に険悪となった。
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各地から集まってきた満人達が恵陽開拓団全地区を包囲し、家を破壊するなど激しい圧迫を加えたので各部落の団員家族は本部地区に集結した。家財や食糧、家畜などの資産はほとんど奪われた。本部地区の周囲を二重三重に有刺鉄線をめぐらし、交代で昼夜警戒に当たりやっと団員の生命と治安が守られる有様であった。
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8月20日、中国治安維持警備隊が来団し大東亜戦争の終結を説き、全員巴彦(ぱあげん)街に避難するよう勧告した。一同早速避難すべく馬車輸送隊を編成し出発準備が終わった時、突然本部の電話が鳴った。受話器を取ると県公署からの連絡ということだった。
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・不思議な電話連絡
日本は敗戦に非らず、日米停戦協定の段階であり避難の要無し。各員現地に止まり食糧確保と燃料獲得に務められたし。追って連合軍の指令により従前通り定着も可能である。こう言い終わると同時に電話は切れた。
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不思議な電話だと思ったが団員の7割が応召して残りは婦女子ばかりになっていた団にとって誠にありがたい連絡であった。このまま出発しても48キロの道中でかなり多くの犠牲者が出ることが予想されたからである。連絡を信頼し馬鈴薯と野菜の採取、家畜飼料の獲得に務めた。
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原住民は一部、友好的に接してくれる方もおり、その力を借りて少し生活に安定の兆しが見えてきた。が、8月27日治安維持隊員が再度来訪しソ連軍の指示に基づきすぐ武装解除するよう伝えられ、開拓団の小銃弾や薬など全て押収された。
自衛の手段である武器が一切なくなり、いわゆる無防備状態となった。
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警備電話も通じないままであったが、この時点に到ってもなお、団長幹部らは日本の無条件降伏など知る由もなく何らかの指示があるものと期待をかけていた。
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1945年9月8日未明、ソ連軍20数名が軍用車3台、機械銃と小銃射撃で陣容を整え国民学校前方の防風林に現れた。しかし団には防備の方法はない。万事休す。同志一同は無抵抗のまま捕虜生活に突入したのである。
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約400名の同志は食う物や飲む物に飢えだした。中田秀雄氏が通訳の役目をしてくれるが、相手がソ連軍では言葉が不十分なため伝わらない。むしろ誤解を招くのか、ますます矯正のムチが加わりただ苦しみが重なっていくばかりであった。
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18キロの行軍の末、巴彦警察署に留置、5日間滞在した。食事は高梁に似たものを一杯配給されたが喉を通らない。家畜の飼料に似たひどいものであった。
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ソ連軍駐屯地捕虜収容所に入れられたとき、開拓団の我らは農耕作業者であって戦闘員ではないから捕虜解除してほしいと要望した。ソ連軍の警戒はますます厳重になり室内の行動さえも制限された。
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栄養失調により衰弱しはじめた中で強制労働が始まった。黒河街に到着するとソ連参戦による爆撃の生々しい惨状が目に映った。ここではソ連軍が満洲から戦掠した農産物、家畜、機械、鉄道線路を日本人捕虜の手で船に積み込ませ、ソ連領へ運ぶ仕事をさせていた。従事している捕虜の間では冷え込みと疲労でアミーバ赤痢が流行していた。
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10月4日、シベリア鉄道でムヒナ駅に到着。しばらくここに収容されるべく準備を進めた。部隊の大半は病弱者となり健康者は数える程しかいないが、収容所の建物も捕虜者自身で建設した
寒さと飢えで死亡者が増えた。38度以上の高熱でないと作業は免じられず、労働ノルマを遂行できなければ規定の食事も配給してもらえない。作業は概ね建築用材の伐採で重労働であった。
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1946年1月6日、60歳以上か20歳未満の者は日本に輸送されることになった。該当者は現地を出発、ラゴエを経て黒河を渡り満洲へ戻ったが極寒と栄養失調によりほとんどが途中で死亡してしまったとの報を受けた。
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6月頃から捕虜の待遇もいくらか改善された。衣類の消毒、週に2回も入浴できるようになった。食事は固定配給、副食給与等に加え宿舎の清掃にも気が配られ、病弱者はだんだん少なくなった。
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1947年3月21日、日本帰国命令を受け、健康者300名が出発のためナホトカ港に移動し4月14日、米山丸に乗船して引き揚げた。
1954年11月30日、金崎晃宣氏が最後の引揚者として団員の帰国は完了した。なお満洲に8名ほど生き残っていると推測されるがその消息は定かではない。
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恵陽開拓団員及び家族死没者名簿
合計 351名
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8月19日、噂が噂を呼ぶ流言飛語の中にあった。夜と記憶するが下士官、兵数名が兵器や食糧を持ち脱走した。ゲリラ作戦を決行するのだと言っていた。その後、発見された片山上飛曹は拳銃自殺を遂げた。私の同年兵で仲の良い戦友であった。
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8月20日、特攻隊は解散。解散式が終わるとすぐ飛んで原隊に帰った。兵舎のガラス窓はことごとく割られ食器が床に散乱し飛行服やジャケットが放置されていた。皆やり場のない感情をこんな形で吐き出している様だった。
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最後まで戦えなかった悔しさから航空機銃を乱射する者、陸軍戦闘機隊と呼応して命令なくして飛行機を飛ばしビラを撒く者、純潔を守るのだと言って電話交換手に来ていた女の子を道連れにトラックで山中に走る者など混乱は極まっていた。
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厚木基地はマッカーサーの到着予定地になっていたので、燕部隊の解散式が22日にあったのだが、どんな要旨だったか全く記憶がない。私達はそれぞれ故郷へ帰還することになった。私は小松経由の徳島行きのダグラスに搭乗、午後2時30分に小松基地に降り立った。これが搭乗員生活最後の飛行となった。
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重い衣のうと隊からもらった酒とビールをぶら下げ24日午後、もう戻ることはあるまいと思っていた我が家に帰ってきた。夢の様であるが、敗戦で生還し生き恥を晒しているという自責の念から逃れられなかった。
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満洲に渡った恵陽開拓団の皆は一体どうしているのだろうか。なんの情報も入ってこない。時間が経つにつれ開拓団の人達は恐らく生きて帰って来られないだろうという憶測が巷で囁かれていた。
満蒙開拓青少年義勇軍の弟・節男、開拓団の姉・すぎ、叔母、その妹の千代子。
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満洲で生活し厳冬の経験がある私はこれから急激な寒気が訪れる満洲のことを思うととても不安になった。無事帰国できることを祈るのみ。満蒙開拓の夢も軍人としての地位も、敗戦と共に遥か遠い雲の彼方へ消え失せた。