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プロローグ


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“南方寳作十七才”

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“不時着”

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“西海村 分村先遣隊”

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五色のテープ” (この5つの色は満州国の国旗の色であり、スローガンである五族協和を意味しています。)

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“黒咀子開拓団”

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“トラック横転”

恵陽開拓団”

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“庶務南方寳作

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“農地開拓”

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[恵陽開拓団ルート]

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敗戦の報に事態悪化

 日が進むに従って物価は非常にインフレ気味となり、労務者の賃金も割高となるなど開拓者にとってますます不利と心配が重なっていた。敗戦の報は開拓者よりもむしろ原住民の思想に反映し、状態は一挙に険悪となった。

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 各地から集まってきた満人達が恵陽開拓団全地区を包囲し、家を破壊するなど激しい圧迫を加えたので各部落の団員家族は本部地区に集結した。家財や食糧、家畜などの資産はほとんど奪われた。本部地区の周囲を二重三重に有刺鉄線をめぐらし、交代で昼夜警戒に当たりやっと団員の生命と治安が守られる有様であった。

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 8月20日、中国治安維持警備隊が来団し大東亜戦争の終結を説き、全員巴彦(ぱあげん)街に避難するよう勧告した。一同早速避難すべく馬車輸送隊を編成し出発準備が終わった時、突然本部の電話が鳴った。受話器を取ると県公署からの連絡ということだった。 

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不思議な電話連絡

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 不思議な電話だと思ったが団員の7割が応召して残りは婦女子ばかりになっていた団にとって誠にありがたい連絡であった。このまま出発しても48キロの道中でかなり多くの犠牲者が出ることが予想されたからである。連絡を信頼し馬鈴薯と野菜の採取、家畜飼料の獲得に務めた。

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 警備電話も通じないままであったが、この時点に到ってもなお、団長幹部らは日本の無条件降伏など知る由もなく何らかの指示があるものと期待をかけていた。

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 1945年9月8日未明、ソ連軍20数名が軍用車3台、機械銃と小銃射撃で陣容を整え国民学校前方の防風林に現れた。しかし団には防備の方法はない。万事休す。同志一同は無抵抗のまま捕虜生活に突入したのである。

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 約400名の同志は食う物や飲む物に飢えだした。中田秀雄氏が通訳の役目をしてくれるが、相手がソ連軍では言葉が不十分なため伝わらない。むしろ誤解を招くのか、ますます矯正のムチが加わりただ苦しみが重なっていくばかりであった。 

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 18キロの行軍の末、巴彦警察署に留置、5日間滞在した。食事は高梁に似たものを一杯配給されたが喉を通らない。家畜の飼料に似たひどいものであった。 

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 ソ連軍駐屯地捕虜収容所に入れられたとき、開拓団の我らは農耕作業者であって戦闘員ではないから捕虜解除してほしいと要望した。ソ連軍の警戒はますます厳重になり室内の行動さえも制限された。

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栄養失調により衰弱しはじめた中で強制労働が始まった。黒河街に到着するとソ連参戦による爆撃の生々しい惨状が目に映った。ここではソ連軍が満洲から戦掠した農産物、家畜、機械、鉄道線路を日本人捕虜の手で船に積み込ませ、ソ連領へ運ぶ仕事をさせていた。従事している捕虜の間では冷え込みと疲労でアミーバ赤痢が流行していた。

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 1946年1月6日、60歳以上か20歳未満の者は日本に輸送されることになった。該当者は現地を出発、ラゴエを経て黒河を渡り満洲へ戻ったが極寒と栄養失調によりほとんどが途中で死亡してしまったとの報を受けた。

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 6月頃から捕虜の待遇もいくらか改善された。衣類の消毒、週に2回も入浴できるようになった。食事は固定配給、副食給与等に加え宿舎の清掃にも気が配られ、病弱者はだんだん少なくなった。

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